「さらば青春の光」は「わかる」
「Bell Boy!!!!」
60年代の“怒れる若者たち”を描いた青春ドラマ。主人公の青年ジミーは、仕事や束縛を嫌い、グループの連中と遊ぶことだけが唯一の生きがいだった。しかし、彼のあこがれていたエース・ファイスさえも、現実社会の中で妥協していることを知り、ジミーは全てに絶望してしまう……。
ーYahoo!映画
わかる。わかるよジミー。
いくら同じベクトルの仲間だと言ってもどこかで考え方、情熱が微妙にずれていて、それを表に出しても相手にされない時のやり場のなさ。
一緒にバカ騒ぎしていた仲間が実は裏ではちゃんとやることやっていて、この「裏では」って言うのがミソで、こっちは「裏では」って思っていても向こうからしたら
「いや、やってて当たり前だろ?」
と思ってやっているのだ。
しかし世間一般からすると、ヤツらは「一つたりとも間違っていなくて」むしろ自分が「間違っている」のだ。
そして間違っている者はその現実を受け入れない。頑なに自分の信念を曲げようとしない。自分が間違っていることを決して認めないのだ。
自分を疑わず、ただ仲間を憎み、世間を憎み、すべてに幻滅し、一人孤独にそのまま道を踏み外していくのである。
こういう人を世の中は「子ども」と呼ぶ。
作中のジミーもそうだ。
ロッカーとの乱痴気騒ぎで裁判にかけられた後、勢いでバイト先の社長に「クソくらえ!」と悪態ついて辞めてそれを友達に報告したら、
「馬鹿だろ(笑)」
と軽くあしらわれる。
裏切られた元カノに「お前俺とセックスしてくれただろ!?」と言うも(これは情けないが)、「遊びよ」と交わされる。
自分の尊敬している不良のカリスマ「エース」がホテルのボーイをしているのを偶然発見して幻滅してしまう。
「辞めてやったぜ俺スゲーだろ」
「あの時は彼氏彼女だっただろ?」
「エースも自分と同じ不良の道を突き進んでいるはずだ」
そんなことはなく、みんなやることやっていて、自分だけがはみ出し者なのである。はたから見ると「いつまでそんなことやっているんだ?」と思われている。
どれもこれも全て勝手に自分が抱いている幻想なのである。他人に対して「こうであってほしい」というただの自分勝手な願望にすぎない。
そのわがままをひとは「子ども」というのだろう。
(これはあるあるだ。
大学受験して落ちた高校生ならわかる人はいるんじゃないか。
一緒にふざけていた奴らがちゃっかり勉強していて成績を出しているのに、オレはみんな勉強しないもんだと思っていて勉強してなかった。
しかも普段の会話も馬鹿話から急に試験の話題や偏差値の話題に変わる。しまいには勉強していないオレはけなされる。いつの間にか俺だけ置いてけぼりだ。
あの時ほど生きづらかった時期は無い。)
「子ども」であることというのは、その情熱の向くベクトルさえ間違えなければ決して悪いことではない。むしろいいことだ。
でもこの作品のジミーが「子ども」と言われるのは多少なりとも悪い意味で言われているのは間違いない。それは向けている情熱が「モッズ(語弊があるが、いわば不良)であること」だからだ。
いつまでも働かずにドラッグばっかやって、友達と公道いっぱいに広がって痛車でぶんぶん走り回っているわけにもいかんだろうしね。
こういう「子ども」も、いつかは現実と折り合いをつけて少しずつ大人になっていくのだろう。
それは喜ばしいことなのか、自らが否定していたものへ堕ちてしまう、情けないことなのか。
それはその人にしかわからない。
と思いました まる
P.S(映画の補足)
この映画はストーリーとかよりも「この年代の世相、風俗を楽しむ」という見方がいい。
劇中「モッズ」「ロッカーズ」といった、ベクトルは違えどもれっきとした不良軍団が目くそ鼻くその喧嘩をするのが散見される。右翼と左翼みたいなもんだ。違うか。
そのなかでも特に「モッズ」と呼ばれる集団が、当時どのような格好で、どのような音楽を聴き、どのような乗り物に乗っていて、どんなことをしていたのかがとてもよくわかる。
この映画から「Vespa(ベスパ)」「Lambretta(ランブレッタ)」というバイクの存在を知った人も多いのではなかろうか。この当時のモッズ集団はこの二つのバイクにありったけのミラーを付けて、モッズスーツの上にモッズコートを身に纏い、街中を走りまわっていました。今この姿で走ると確実に好奇の目で見られるでしょう。
実際余計な装飾を何も付けなかったらこのベスパ、ランブレッタはすごくイカすスクーターです。あなたもこの映画を見てモッズの道に誘われてみませんか?
ちなみになんでこの映画のことを書いたかと言うと、久しぶりに会った高校の部活の同期とバイクの話になったのだが、向こうはゴリゴリのアメリカンバイク好きで俺の好きなベスパの事を思いっきりけなしてきたので言い合いになったからである。