追悼、M監督
このブログはフィクションというテイです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
うちの大学の元監督が11月末に亡くなられていたみたいだ。
しばらくの間、鬱で監督業を休むことになったとは聞いていたけど、あの監督(以降M監督)のことだからすぐ元気になって復帰するだろうと、おれ含め部員全員全く心配していなかったけど、いつの間にか急性心不全によりこの世を去られたようだ。結局、コロナ前に会ったのが最後になってしまった。
M監督は気さくで絡みやすい方で、歳は20近く離れてはいたが話しやすい方だった。自分のことを喋るのが好きな方で、キャバ嬢精神でM監督にいろんな武勇伝を聞かせていただいたものだ。
20も僕らより年上なのに、我々大学生の部員の飲み会にフラっと現れては僕ら以上に粗相をして手を煩わせたところとか、「オトナとはキッチリしたもの」という概念をそこそこに破壊するひとだった。でも、そういうだらしないところというか妙に「できていないところ」が僕にはシンパシーを感じて好きだった。だけど、もう会えなくなってしまった。
部活のグループLINEでM監督の両親からこんなお言伝があった。
お願いは〔中略〕、私にとっては空白のままの、○○大医学部の恩師や同窓の方たちやクラブ関係者、全学部の仲間の皆さん、教えに行っていた道場の皆さん、それに高知の病院での関係者の皆さんや神戸へ帰って来てからの関係者の皆さんのお話を伺いたいのです。ふつつかな息子であったのは承知していますので、様々な出来事や忌憚のない意見を遠慮なくお話しくださればそれだけで有難いのです。もちろん、公開非公開はご意思にお任せします。(一部改
監督のご両親は息子と衝突することが多く、亡くなる前の数か月間以外で関わることがほとんどなかったようだ。そのため、その間に息子(監督)との交流があった人達から、息子の思い出話があれば少しでも聞かせてほしい、とのことだった。M監督の両親への返答と、追悼の意もこめて、M監督との数少ない思い出を書いていこうと思う。
M監督は、おれが部活を引退した翌年に新監督になられた方だった。練習には精力的に参加していただき、非常にありがたかった。プライベートで関わったことはそんなにないけれども、練習終わりの飲み会で一回、引退試合帰りの飲み会で一回ご一緒したことがある。その2回の出来事について、つらつらと書いていこうかと思う。
一回目。練習終わりにみんなで久しぶりに飲もうということになって、M監督も是非、ということでM監督も混ぜた飲み会が行われた。場所と時間を伝えて我々がその店の前に行くとすでにM監督は到着しておられたが、店に来る前に何本か開けてきたのか、もうすでに顔が仕上がっていた。というより店の前に着いたときにはストロング缶一本をごくごく飲んでいた。
その飲み会では、部員のお疲れ様会だというのに、部員より喋るし、部員より飲むので俺らは面白がってめちゃくちゃ飲ませようとしたらもっと調子乗って飲もうとするのだ。急性アル中で運ばれるんじゃあないかと思ったくらいだ。
飲み会の後、M監督が
「カラオケ行く?おれ全部出すし」
というのでみんなで初めて部活でカラオケに行った。今まで部活でカラオケに行ったことなかったのだ。M監督は最初当たり障りのない曲を歌っていたが、だんだん気持ちが乗ってきたのか、シャウト系の歌を歌っておられて、楽しそうにしていた。おれは大の大人が奇声をあげて変な歌を歌うとこんな感じになるんだなって思って見ていた。マネージャーは若干、いや結構引き気味に見ていたのであった。
ミカンハイロイロアルケレドーーーーーーーーー
エヒメノミカンハ一ツダケーーーーーーーーー
エヒメノミカンヲタベルナラーーーーーーーーー
ノウカノアイヲカミシメローーーーーーーーー
カワヲステルヤツガイルーーーーーーーーー
カワヲステテハイケナイゼーーーーーーーーー
フロニハイレテアッタマレバーーーーーーーーー
ポカポカーーーーーーーーー
ココロガナゴメバセカイハ一ツーーーーーーーーー
セカイニハバタケエヒメノミカンーーーーーーーーー
ミカン ミカン ミカン!!!!!!
ミカン ミカン ミカン!!!!!!
ミカン ミカン ミカン!!!!!!
ミカァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!!!!!!!!!
2回目。俺の一個下の代の引退試合後の飲み会だった。引退の挨拶もそこそこに開始早々、ひとりで浴びるように酒を飲んで、開始1時間もたたずにベロベロになっていた。それだけだったらよかったのだが、みんなが目を離したすきに自分の荷物を放置して完全に失踪したのだ。財布も何もかも放置してどこ行ったんや、とみんなで探したけれども、だんだん探すのがめんどくさくなって、M監督の財布にあった金で飲み屋の近くにあった屋台で買えるだけのクリームブリュレを大量買いをしたのだった。
マネージャーが「いい歳した大人が年下だらけの飲み会でベロベロなって迷惑かけるなよ」とめちゃくちゃキレていた気がする。
後輩は練習終わりに福原のソープランドに連れて行ってもらったりしていたみたいだ。あるラブホテルを拠点に遊び方を一通り教えた後、部員全員に一回遊ぶ分のお金を渡し、
「おれはこのソープ街で、本番強要で出禁になってる店が何個かあるねん!!」
そう自慢げにおっしゃって、高笑いで福原のネオン街に消えていったようだ。
その話を後輩づてに聞いて、今度会った時連れていって貰おうって思ってたらコロナがはやり始め、一旦コロナがおさまったくらいの時に部活に行くとM監督が体調不良で監督を退いたとの話を聞いた。周りは無責任な!と怒っていたけど、まぁあの監督のことだしいつか何事もなかったかのようにフラっと現れるやろ思っていたが、そうはならなかった。パワハラによる鬱で休職後、少しマシになって復職したものの、また執拗なパワハラに遭い、体調を崩されてしまった。そして最後は帰らぬ人になってしまった。
大人になるのはしんどいことだ。ムカつくヤツがいようが理不尽なことがあろうが、誰に言われたわけでもないのに、目に見えない「自覚」と「責任」みたいなもののご機嫌を伺いながら、カッコ悪いこと、みっともないことの連続のなかで、ただ精神を摩耗していく。M監督はそんなクソみたいな世界をシラフで生きることができなくて、酒に溺れていたのだろうか。要するに僕にはわからない。
ここまで何の足しにもならないことしか書いていないけれども、もしこの記事に何か意味があるとすれば、M監督は、僕の短くとも、自分なりに長いと感じる一生の中で強く記憶に残る人であったという証左になっているかもしれない、ということくらいだろうか。M監督の記憶に残っていてほしかったなんて厚かましいことは望んでいない。天国でも地獄でもないところで変わらずいろんな事象に迷惑をかけていててほしいと思っている。
M監督のご冥福をお祈りします。