道端で見つけたネコの死体
つい最近、夜中に家の近くをバイクで走っている時に道路に何かが落ちているのを確認した。
交差点の信号が赤と黄色でチカチカしている時間で車も走っていなかったので近づいて見てみると、首がちぎれているネコのホトケだった。車に首をちょん切られたのだろう。切られた首の根元から何か飛び出ていた。
僕は両手を合わせてその場を立ち去った。
埋葬してやろうなどの情けは無用だ。
ちょうど一年前、僕は神戸の元町で下宿しながら新聞配達のアルバイトをやっていた。
2月の激寒な時期で、その日は雨も降っていた。
雨が降ろうが風が吹こうが雪が降ろうが新聞配達という仕事はある。
夜中の2時、バイクで仕事場に向かう途中、道路に何かが落ちているのを確認した。
バイクを近くに止めて見てみると、ネコである。
近づいても動かないので掴んでみると、ゴジラのソフビ人形のごとくそのまま持ち上げることが出来た。
死んでカチカチに固まっているのである。ホトケ様になっているのである。
そのまま元の位置に戻すと車に轢かれてぐちゃぐちゃになる恐れがあったので道路のわきに置いておいた。
新聞配達が終わってから気になって行ってみると、まだホトケはあった。
ずっと雨が降っていたのでずいぶん濡れていた。
このクソ寒い外で雨にさらされているのを見ていると、なんだかコイツが救われないような気がしてきた。
厳しい寒さの中生きてきて、死んだ後のほうがもっと寒いだなんてかわいそすぎるよ。
俺は販売所から数部新聞を取ってきて、そのホトケを包む白布代わりにした。
包んだのはいいが埋める場所はあるのか、埋めるための道具はあるのかといろいろ考えたの結果、近くにハーバーランドという港があるのでそこに流すことにした。
水は命の源だ、最後はすべてそこに還るはず、ともっともらしいが訳が分からんことを思ったのであった。
ということでホトケを後ろのカゴにいれようとしたのだが、なんせカチカチ過ぎて全体が入らないのだ。
結局リアキャリアからネコのしっぽがダランと垂れた状態で運んだ。警察に見られたら即職質レベルである。
ハーバーランドに着き、リアキャリアから新聞紙の塊を取り出し、ネコを包んでいる白布、もとい新聞紙をはがした。
「つぎはきちっと死ぬんやぞ」
と自分でもよくわからない別れの言葉を告げて俺は海へとネコの死体を放り投げた。
ざっぱーーん、と派手な音が鳴った。
数秒後ソイツは浮いてきて、ただ波に身を任せて流されていた。
俺はその流れていく様をただただ見ていた。
命は脆い。想像以上にあっけない。俺たちはそのことを忘れがちだ。
俺たちは「生きている」ことに気づかない。あまりにも生きていることを当たり前のことだと思いすぎている。だから無駄に時間を過ごしたり、自殺だなんてことを言ったりする。
俺たちが「生きていること」を実感することができるのは「生」を直視したとき、例えば親しい人が無くなったとか自分や身内が死に直面したときのみで、それもほんの少しの間だけである。
人はだれでも死ぬ。どんなに若くて年寄りが気に入らないとか言っているヤツも数年後は皆例外なく年寄りになり、そして例外なくこの世から消える。
でもこの世から自分がいなくなるなんてことは考えられない。だから死ぬことを考えるととても怖くなる。
俺は生きる。今実感することのできるこの生を無駄にしないためにもその灯がついている限り生きる。死ぬときになって初めて
「ちゃんと生きればよかった」
だなんて情けないようなことぬかすようなことにはなりたくない。
生きて生きて、生き抜いてみせる。
そして10メートルくらい離れたくらいで俺はやっと気が付くことが出来た。
海に流した方がネコ寒くない?
それに気づくと感傷的な気分が急に申し訳ない気持ちになって、かといってもう取り戻すこともできないのでだんだんどうでもよくなってきた。どうでもよくなってくると急に眠たくなってきた。
俺は新聞を集めてバイクに乗った。
改めて後ろを振り返ると、白いカモメがホトケの周りに集まっているのが確認できた。
・・・・まぁ、いっか
俺は家に向かってバイクを走らせた。
道端に落ちているネコの死体に余計なことをしてはいけない。おれはそう思った。
メシ食って寝るだけ。それだけですべて世は事も無し。